眼鏡をかけていると殺される!?〜ポル・ポトによる大量虐殺〜

カンボジアの負の歴史についてお話しします。

恥ずかしながら私、かものはしプロジェクトで働く前はこのこと知らなかったですよ…。

タイトルからもう重い話ですが、知らない人は是非知ってほしいですね。

虐殺があったのは半世紀も経ってないつい最近の話です。

 

 

1953年にフランス領から独立したカンボジア。その2年後には隣国でベトナム戦争が勃発。米軍による空爆カンボジア全域に広がり、内戦は激化します。これが反アメリカを掲げるクメール・ルージュカンボジア共産党)の勢力を大きくしてしまいます。ベトナム戦争終結と時を同じくして、クメール・ルージュ書記長のポル・ポト(1928-1998年)が民主カンプチア(現カンボジア)の政権を握ることになります。これが地獄の始まりです。

 

ポル・ポトが目指す原始共産主義共産主義の最終形態とも言えます。分かりやすく言うと理想は原始時代!貨幣も知識も文明も全て排除すれば、人間みんな平等じゃん!っていう考え方ですね。それと同じ頃に日本では大阪万博で月の石に感動していたことを考えれば、いかに時代にそぐわない考え方だったのか、お分かり頂けると思います。

 

ポル・ポトは自身の理想郷実現のために、まず国立銀行を閉鎖し、貨幣を廃止します。都市部の住民を農村に強制的に移住させ、農業に従事させます。資本主義に逆行すべく、農業は全て手作業。そこで生産されたコメも武器調達のためにほとんど輸出されたので、多くの国民が飢餓と栄養失調と過労で亡くなったそうです。

 

 

  • 知識層の大量虐殺

ポル・ポトは若い頃にフランスのパリに留学していたくらいなので、原始共産主義の矛盾に気付いていたはずです。しかし裏切り者やスパイの反逆を恐れ、医者や教師といった知識層の虐殺を始めます。知識があると何を考えるのか分からない、片っ端から殺していくしかない、というわけです。「国を良くするために知識や学問、技術のあるものは名乗り出てほしい」と嘘の命令を国民に出し、信じて集まってきたものは一斉に捕えられて殺されました。

虐殺はどんどんエスカレートし、文字が読めるから、外国に行ったことがあるから、眼鏡をかけているからという理由で虐殺の対象になりました。(本当に意味不明ですね…。)

子供はまだ資本主義に染まっていないからという理由で重宝され、子供医師や少年兵として重要な仕事を担わせました。文字も読めないような子供の医者に医療手術などできるわけもなく、残酷な結果で終わります。

少年兵は民家の軒下に隠れて、住民の会話に聞き耳を立てます。少しでも政権の愚痴をこぼす会話が聞かれたら最後。少年兵に密告され、収容所に連行され処刑されます。

処刑の仕方も残酷で、体が耐えられない拷問器具を使ったり、女性を裸にしてレイプしてから殺したり、母親の目の前で子供を木に打ち付けて殺したりと、もう言葉にするのも辛くなってしまうようなやり方で行われました。

この大量虐殺による死者の数は正確に分かっておらず、100万〜300万人にも及ぶと言われています。

 

  • その後

1978年、ベトナムに避難していたカンボジア国民がベトナムの力も借りて、カンボジア国内を侵攻します。カンボジアはわずか2週間で制圧され、ポル・ポト政権が終わりを告げます。その時のカンボジア人口の85%は14歳以下だったことを考えれば、2週間で制圧されるのは当然ですね。

 

今回の出張の合間を縫って、大量虐殺が行われた刑場跡、キリング・フィールドに行こうと思います。そこに今尚並べられているおびただしい数の頭蓋骨を見て、何を感じるのか、また記事にしようと思います。

 

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。